
大相撲の土俵において、力士たちの一番を最も近い場所で見つめ、裁きを下す「行司」。その最高位である立行司を務めた39代木村庄之助さんが、10月に相撲協会を停年退職されました。
「うれしかったことは特にない」「最後の一番も平常心」。そう飾らず淡々と語られる言葉の裏には、半世紀近くに及ぶ行司人生で培われた、プロフェッショナルならではの圧倒的な覚悟がありました。今回は人生の節目をお祝いし、北の富士さんとの入門エピソードから貴重な愛用品まで、知られざる行司の世界に迫る特別インタビューをお届けします!
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憧れの北の富士さんから届いた返事。15歳の行動力が手繰り寄せた行司への道
──行司さんになったきっかけを教えてください。
小さいころから相撲が好きで、相撲に関わる仕事をしたいと思っていました。体は大きくないから力士にはなれないな、なるなら行司さんだな、と。北の富士さん(第52代横綱)の大ファンだったので、北の富士さんに「行司さんになりたい」と手紙を書いたら、ほどなく返事が来まして、運良く入門できることになりました。
──北の富士さんのファンだったのですね。
はい。私が子どものころは、大鵬さん、北の富士さん、玉の海さんと横綱が3人いました。昭和46年に大鵬さんが引退したあたりのころでした。家が東京だったので、小学生のころは父親といっしょに蔵前国技館に行っていました。中学生になってからは、相撲好きの友だちと観戦に行ったりしていました。
──北の富士さんからのお返事には何とあったのですか。
「一度国技館に来なさい」と。そのころ、北の富士さんは引退されていて、井筒親方として独立していました。会ったら「君は行司に向いているね」と言ってくださいました。当時の井筒部屋には呼出と床山はいたけど行司はいなかったので、行司にしたかったのでしょうね。
──呼出さんや床山さんではなく、行司さんになりたいと思ったのはどうしてでしょう。
やはり「土俵に上がれる」というところですね。手先があんまり器用じゃないので、髷を結う床山はまず無理だな、と思っていました。
──そうして念願の行司さんになられたのですね。
当時は枠(行司・呼出は各45人、床山は50人が定員)が空いていて、入りたいといえば誰でもなれるという時代でした。今はもっと大変だと思います。
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